4月7日(土),第16回数学史名古屋セミナーを開催しました.このセミナーは森本光生先生とともに名古屋ではじめたセミナーで,毎月一回,『大成算経』という本を読み,その現代語訳を試みています.
今日はセミナーのさわりの部分を少し.
『大成算経』は近世の日本数学史で最も有名な数学者の関孝和(せきたかかず,?〜1708年)と,その高弟の建部賢弘(たけべかたひろ,1664年〜1739年),建部賢明(たけべかたあきら,1661年〜1716年)が協同して,当時の数学を集大成しようとした一大プロジェクトの成果で,全部で20冊,900ページ以上ある大著です.いわば「江戸時代のブルバギ」というところでしょうか.
この本はたとえば京都大学数学教室で画像が公開されていて,誰でも見ることができます.
『大成算経』プロジェクトは途中で関孝和が病弱で離脱し,建部賢弘も仕事が忙しくなって離脱して,最後は建部賢明が一人で完成したと言われています.その点ではプロジェクト自体は空中分解した感がありますが,ともかくも完成した訳です.
さて,この本はとても難しい本です.たとえば『三要』(巻四)は次のように始まります(画像).
夫象形者,万事之本,為題問之首,而常有定法之式,亦有臨場之機。然満干変化之道備,而数能致其用矣。此三者,為衆理当窮之要也。蓋自問題、答術之技,以至天地之運、万物之気与動作云為之事,悉莫不以具其理、包其数焉。是以学者宜尽物変,而窮其理矣。
こんなところで高校の漢文の授業が役に立つとは思いませんでした(若い頃には何でも勉強しておくことです).それはともかく,終わりの方は,
問題の解法から天地の運動,万物の気,人の行動の解明に到る数学の諸相には,原理が備わり,数値が含まれないということはない.この原則を理解して,数学を学ぶものは諸事のすべての変化を観察し,その原理を探求しなければならない.(森本訳)
というような意味です.わかったような,わからないような...
数学観というものは時と場所が違うと,ずいぶん異なるものです.こんなところにも近世日本数学史研究の楽しみがあります.