後藤朱実さんのカンボジア訪問記(その1)

環境情報学部4年次(社会人学生)の後藤朱実さんが卒業研究でカンボジアの人々や文化を調べています。今年の3月と9月に現地を訪問し、自分の目と足を使って生のカンボジアを体験して来られました。その様子を報告いただきましたので、以下に掲載します。(10月1日に以下文書を後藤さんの依頼で修正しました。)
 
****** 後藤朱実さんのカンボジア訪問記(その1) ******
 
今年の3月、初めてカンボジアを訪問した。カンボジアの稲作を卒業研究の課題にしていたためである。
 
カンボジアは季節が雨季と乾季に分かれている。3月は丁度乾季の真っただ中であり、雨はほとんど降らず、土地は乾燥状態であった。見たかった水田の稲作は、一部の地域を除いて、あまり見ることが出来なかった。そのような経緯もあって、雨季真っ只中の田んぼの風景が見たくて再び9月に訪れた。
 
まず首都であるプノンペンを出発した。この国では、交通機関があまり良くないため移動に時間がかかる。交通機関としてはバスかドライバー付きの専用車を貸し切るしか方法がない。バスの乗継では、思うように動けないから、滞在期間中、ずっと同じ専用車を頼むしかない。今回も前回と同じドライバーをお願いし、雨季のために4WD車でスタートした。
 
最初の訪問地コンポンチャム州は農産物を生産する地である。この地には「スピアン・キズナ」(きずな橋)というメコン河を縦断する全長1360mの橋がある。この橋は日本による無償援助で建設され、3年を要して2001年に開通した。これによって、いままで対岸との行き来に2時間以上かかったのが、あっという間に通じるようになった。川沿いは人々の憩いの場所になっていて、夕方になると露店が出て夕涼みの人たちでにぎわうらしい。
 
カンボジアは約80%が農業に携わっているということで、国道沿いで見られるのは延々と続く水田の風景である。それはこの国らしさを最も表してるのかもしれない。3月の乾季時には水田の土地はほとんど土がむき出し状態で牛が放牧されていた。乾季に牛を放牧することで田が耕され堆肥が出来るわけだ。以前の日本でもこうだったなと思う光景が続いていた。
 
今回は両サイドとも、目も見張らんばかりの鮮やかなグリーンが続いていた。これが見たかった。今の日本のそれとは明らかに違う田園風景は言わばこの国の人々の命の源だ。この国の人たちにとって、食=コメなのだと思った。そんな田園風景に目を奪われ、時には立ち止まりながら、コンポトムに向かった。
 
1993年4月8日、この地で国連カンボジア暫定統治機構のボランティアとして総選挙実施の支援活動中だった中田厚仁さんが何者かに狙撃をうけ、25歳の若さで生涯を閉じた。そして、いまその地はアツ村として生まれ変わり、アツ小・中学校が創設され、この地の子どもたちが学校に行けるようになっている。
 
そのアツ村の奥にソムボー・プレイ・クックという、アンコール・ワットより古く7世紀に造られたレンガ作りの遺跡があるという。かなり破壊が進み原型をとどめていないという話しだったが、それを見たかった。
国道から一本入ると、道中はラテライトを多く含んだぬかるみの道となり、大きな窪みが出来、いたるところまるで池のような悪路を息をのみながら到着した。
 
ソムボー・プレイ・クックを一回りして車に戻ろうとしたとき、そこの一角で10名くらいの子どもたちが集まり勉強しているのに気がついた。それは日本の寺子屋のような印象だった。男性の先生が一人いて、子どもたちは電気もない暗い境内で、元気のよい声が飛び交っていた。私があいさつをすると、子どもたちはにこにこしながら、「こんにちは」「さよなら」「またね」と日本語で返してきた。驚いた。
 
先生の話によると、この奥で長年ボランティアとしている早稲田大学の学生たちの支援によって、この学校は作られ、そして維持されているという。その先生は、アツ村の子どもたちはとても貧しくて、学校に行けない困難な状況であったが、無くなった厚仁さんのお父様の協力と、早稲田の学生たちの支援によって、このように勉強することが出来るようになっていると話された。
 
私たちが悪戦苦闘して来た道も、以前はとても道と言えるような状態ではなかったため、中田さんのお父様のご尽力によって、ようやく道らしくなったのだと言われた。そして、帰りに、ぜひATSUHITO村の事務所に寄って欲しいと何度も言われた。そして、その当時のことや、この村の困窮状態などを熱く語った。ここの人々の生活は、想像がつかないくらい貧しく、その日を食べるにも不自由するなかではあるが、出会う人々から暖かいぬくもりを感じた。
 
とにもかくにも、使える土地は出来る限り水田にして、少しでもより多くのコメを作ることだけが生活の糧となっている。それでも、全く十分とは言えない状況であることに変わりがない。しかし、その環境がどんなに悪くても、その状況のなかで、人々は決してめげることなく、その時その時を生きていた。
 
この国の人たちから一応に感ずるのは、ひとえに「生きることへのたくましさである」。
魂のすごさを感じる。
 
その2へ 続く・・・・
 

KOmpong Cham KIZUNA Brige メコン河に架かる全長1360m 日本の無償援助によって3年かかって作られ、2001年に開通した。
この橋が出来たことで、それまで対岸へは小舟で2時間以上かかったため、人や物流の行き来が閉ざされていた。 今は、あっという間に行けるようになったと、ドライバーはとても嬉しそうに話してくれた。露店が出たりして人々の憩いの場所にもなっている。


 

カンボジアの水田


 

ラテライトを多く含んだこの道は、ぬかるみと大きな池のような穴ぼこだらけであった。


 

サンボー・プレイ・クックの敷地内で境内で勉強する子どもたち。あいさつをすると、なんと日本語で「こんにちは、またね、さようなら」などなど日本語で挨拶が返ってきた。とてもあかるい子どもたち。


 

境内の小さな学校の先生。無償だと言っていた。


 

1993年4月8日、この地で国連カンボジア暫定統治機構のボランティアとして総選挙実施の支援活動中、狙撃され25歳の若さで生涯を閉じた中田厚仁さんを偲んで、この地はアツヒト村として生まれ変わり、アツヒト小・中学校が創設され、この地の子どもたちが学校に行けるようになった。


 

アツ村の事務所。ATSU village office
ミニホテルとして宿泊所になってるらしい。中田さんが作られたそうだ。


 

サンボー・プレイ・クックからの帰り道。あちこちでお坊さんたちはこのようにして修行の旅をしているのをみかける。
いまや携帯電話は、必需品のようだ。もう一人子どもの修行僧もいた。道を聞いたらにこにこしながら教えてくれた。ほとんどがカメラを向けるとポーズをしてくれたり、中には、自分から撮ってとせがまれることも度々あった。お坊さんはとても親しげによくしゃべる。

  
 

カンボジア訪問行程図(3月)


 

カンボジア訪問行程図(9月)

3件のコメント

  1. At first I should apologize to write in English because my computor would not accept HIRAGANA NYUURYOKU by mistake. Well I stayed in Cambodia a week about ten years ago, when we visited eastern highland area to seek for a possible rubber plantation field, a candidate carbon offset project as a CDM project. We discussed several young bureaucrats in agriculture, environment and industry development. They were closs contact eachother not to be bureaucracy, thus useful information and knowledge became common to them even we spoke to one of the bereauctat. As Ms Goto reports us Cambodia requires many young learned people, therefore we could contribute her in providing any opportuinities such as school building construction, math and/or language teaching, or study tool donation.

    • GOTO Akemi

      Nitta professor, thank you for your comment .

      This time, I’m acutely aware of the importance of the fact that stand in the field.

      I want to let you know even a little of Cambodia.

      THen next , Thank you.

      新田先生 早速にコメントをありがとうございます。

      今回、私は、現場に立つということの大切さを痛感しています。

      より少しでもカンボジアのことをお知らせ出来たらと思っています。

       引き続きよろしくお願いいたします。

  2. 海外の人たちから尊敬されている日本人がいるという話を聞くと、同じ日本人としてとても誇りに感じます。中田厚仁さんは若くして命を失いましたが、命の使い方にはいろいろあるのだと改めて感じます。
    日本は戦争で過ちを犯しましたが、このような方々の活躍や、日本人が努力して生み出したユニークな文化や高い技術などで、世界にたくさんの日本ファンを作ってきたのだと思います。
    今、四日市大学に来ているたくさんの留学生も、その日本ファンの一部でしょう。
    このような日本ファンを大切に育ててゆきたいですね。
    卒業研究は大きなテーマですが、頑張ってください。

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